放蕩息子

放蕩息子

 

イエス・キリストが語られた話の中にも「放蕩息子のたとえ」は特に有名なメッセージです。父から愛されていた大変に裕福な人の息子いました。ところが父に縛られたくないと考えた息子は、父に財産分与を求め、得た財産をもって遠い国に行きます。やりたい放題の放蕩を行い、すべてを使い尽くします。その後で飢饉がおこり、食べることも事欠き、ようやく豚飼いの仕事に就いたのですが、彼は父の元に帰らない限り、死ぬことに気づきます。そして父は大きな愛をもって、帰ってきた放蕩息子を受け入れたばかりか、最高の祝福でもって祝福し愛を注ぐのです。これは、神から遠く離れた人間の状態、結末、大きな神の愛を表しています。

神との関係

「苦しい時の神頼み」という言葉があるように、普段は「神などいない」と言っている人が、突然の困難の時には神にすがったということは良く聞きます。人は、神がご存在されることを元々と分かっているということです。その神とは、神社仏閣にある木や石の像ではありません。それらは人間の作り出した物に過ぎず、偶像にすぎません。私たち人間の住むこの世界全てを造られ、全てを支配しておられる創造主なる神がおられます。それは、この世界を少し観察すれば簡単に理解できます。どんなものでも秩序のあるものを見た時に、それを考え作った者がいると分かります。たとえば家は勝手にできません。設計した建築士や組み立てた大工がいます。同じように、この世界には秩序が満ち溢れています。たとえば、ロケットは遠くの星に行くことができます。そのために複雑な計算が必要ですが、それは太陽や惑星の秩序正しい動きがあるからできることです。もし秩序がなければ計算をすることができません。このように、この世界にはあらゆるところに秩序があります。それらの秩序を見る時に、創造主なる神のご存在を知ることができます。

では、どうして人々は、神のご存在を分かっているのに無視しようとするのでしょうか。それは自分の思い通りに生きたいからです。そこに聖なる神のご性質に適わない罪があるからです。自分の人生に口出しさせないために神などいないと自分に言い聞かせているのです。ちょうどたとえ話の息子のようにです。

しかし、神を無視して自分の思い通りに生きた結果は何でしょう。ある人は、願っていたもの、欲しいものを手に入れたかもしれません。しかし満足は一時的で、もっと別のものを欲しがる心の飢え乾きがないでしょうか。また、楽しい人生を思い描いていたはずなのに、実際はそれとは裏腹で、空しかったり、あるいは思ってもいなかったみじめな生活になってしまっていないでしょうか。

罪の裁き

 

神を無視する本当の恐ろしさがまだあります。神はこの世界をお造りになった方ですから、最高権威者としてすべてを支配しておられます。その御方を無視するということはまちがいであり、それが罪です。神を無視する罪人は裁きを受けなければなりません。聖書は、そのさばきの場所が火の池、すなわち地獄であると語っています。そこは休むことが許されず、永遠に火で焼かれ苦しみ続けるところです。これが神を無視した人の結末です。もし、罪の赦しを得ていなければ、たとい思い通りに生きられたとしても悲惨です。ではどうしたら罪の赦しを得ることができるのでしょうか。感謝なことに神様が罪の赦しに必要なすべてを備えてくださいました。

救いの方法

キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。ルカ24章46節

神の御子であるイエス・キリストが十字架にかかられました。キリストは全ての人の罪を背負い、神の罪に対する怒りをことごとく受けてくださいました。そして、その尊い血を流し、いのちを差し出して死なれました。キリストは私たちに罪の赦しを与えるために身代わりに死なれたのです。神はこのキリストを死後三日目によみがえらせなさいました。そして、当時の多くの人々がよみがえられたキリストを目撃しました。彼らはあらゆる国に出て行き、命がけでこの救いを宣べ伝えたのです。誰でも、キリストを救い主として信じるなら、死後の裁きの場所である地獄から救われて、天国に入れていただけます。

神の愛

たとえ話の息子は死を現実にした時に、父を無視し、自分の思い通りに生きようとしたことが間違いであることに気がつきました。そして悔い改めて父のもとに帰りました。帰って来た息子をお父さんは喜んで受け入れ、盛大な祝宴を開きました。同じように、神も皆さまが悔い改めて立ち返ってくるのを今日も待っておられます。神はキリストを十字架につけて、そのいのちを犠牲にするほどまでに皆さまを愛しておられます。キリストをご自分の救い主として信じて、神の子どもとされて、神のみもとの天国に行く方となってください。